チェンマイマイラブ 2014年秋


六 雨のぼったくりトゥクトゥク


 旅の三日目、EZゲストハウスの宿泊者のT子さんとS君、バリから来ているK子さんとでワットポーを訪れ、寺院内の寝釈迦仏にお参りし、108の壺にサターンコインを投げ入れて煩悩を払った。

 寝釈迦仏の建物から出たら、体内のあらゆる欲望が解き放たれて、まるで自分も仏様の弟子よろしく綺麗な仏心が生まれていた、なんてことは全くなく、近くにいた長身チャイナ服美女たちに目が釘付けになり、しばし佇むどう仕様もない人間であることを改めて認識したのであった。

 ◆長身チャイナ服美女たち(何かのモデルでしょうか)



 しばらくワットポーの広大な境内を散策し、タイ古式マッサージの学校兼施術所もまだ健在であることを確認(十五年ほど前に初めてここを訪れたとき施術してもらいました)、数日後に向かうチェンマイではタイ古式マッサージの学校に通う友人と再会することを楽しみに思うのであった。

 ワットポーを出る頃には空模様が急速に悪くなり、「この分じゃひと雨来ますね」とK子さんが言う。

「私はこれからお土産の買い物に向かいますから、ここで失礼します。また夜にね」

 そう言い残してK子さんはタクシーを止めて行ってしまった。

 T子さんとS君は、ともかくタイでは最も有名なワット・プラケオを訪れたいとの意向で、僕はプラケオも二度ばかりお参りしているが、行きましょうということになった。
 ワット・プラケオは通称名であり、正式名称はワットプラシー・ラッタナサーサダーラームと称し、本堂にエメラルド仏が安置されていることから、Temple of the Emerald Buddhaと呼ばれている。


 ワットプラケオはワットポーのすぐ近く、王宮の広大な敷地内にある。だが近づいてみると観光客が続々と出てくる。入ろうとする客は警備員から「もう入れない」と言われて押し戻されている様子であった。

「おかしいね、どうなってるのかな?」

「どうしたんでしょう、皆んな出てきますね」

 僕たち三人はしばらく様子を見守っていたが、入口の警備員に聞いてみると、「今日は午前中で参拝は終わり。もう入れない」とのことだった。

 タイではときどきセレモニーのために寺院が休院になったりするが、それを利用して実際はオープンなのに別の寺院や宝石店や洋服仕立て屋などをトゥクトゥクの兄いに案内される、いわゆる詐欺被害が有名なので、いつも疑ってかかってしまう。(実際僕も2000年の夏に一度だけ騙されているからね)

 でも今回のは本当だった。そりゃあそうだろうな、何といっても王宮敷地内のワットプラケオの警備員が嘘を言うはずがない、我々三人は仕方なく諦めた。

 相変わらず雲行きが怪しく、今にも雨が降りそうだが、近くの象さんのキャラクターのあるとことで記念撮影をした。

 ◆王宮広場前の象のキャラクター像


 S君はこのあとコムローイのラストに間に合わすためにチェンマイへ飛ぶため、空港への便利な駅まで出たいと言う。ではBTSのパヤタイかサイアムあたりまで出ましょうかということになったのだが、そのとき突然雨が降り出した。

「仕方がないですね。タクシーでも拾いましょう」

 T子さんは言ったが、彼女も僕もS君もタクシーを捕まえようとするが、タクシー自体がほとんど走って来ない。雨は次第に勢いを増して来る。バンダナを巻いている僕の頭も濡れ始める。

 そのとき、トゥクトゥクの中年オヤジが「乗りまへんか?」と誘って来た。この際、トゥクトゥクでも仕方がないだろうと思い、「BTSの駅まで100バーツで行ったららんかい!」と言うも、「何言うてはりまんねん、そんなので行けまっかいな。300バーツでっせ!」と言う。

「アホ抜かせ!ぼったくりやないか、タクシーでもMBK(マーブンクロン)まで150バーツ程度で行くで!」

「ホナ、他探しなはれ」

「いやいや、ちょっと待ってちょっと待って兄さん!」

 T子さんとS君と相談した結果、彼もチェンマイ行きのフライト時刻のこともあるので、ともかく目の前のトゥクトゥクに乗るしかないですねという結論になった。我々の会議を見守っているオヤジが「乗るしかないやろ」ってな視線でこちらを見ていた。

「仕方がないわ、乗ってやる」

 我々は乗り込んだ。オヤジはビニールシートで雨がかからないように丁寧に覆い、意外に親切そうな振る舞いに変わった。やっぱり300バーツは確実にぼったくりだからな。

 土砂降りの雨の中、我々三人を乗せたボッタくりトゥクトゥクはBTSスカイトレインの国立競技場駅近くのMBK(マーブンクロン)へと走り出した。

◆走るボッタクリトゥクトゥク



七 誕生日の夜 その一


 旅の三日目、マイバースデーのこの日、王宮前広場で突然の土砂降りの雨に遭遇したため、やむなくボッタくりトゥクトゥクオヤジに仕方なく身を任せた我々三人は、三十分ほどでマーブンクロン(
MBK)の裏手に着いた。
 トゥクトゥクから降りると、雨はスッカリカラカラスッカリこんと止んでいて、一気に日差しが強い好天に打って変わっていた。まあタイではよくあるスコールでした。

「ほらよ、300バーツ、持ってけドロボー」

 そんな感じで支払いをすると、ニヤニヤと「フン、日本人なんてチョロいもんよ」といった顔つきのトゥクトゥク兄い、憎たらしいが仕方がない。

 さて、MBKの表口まで館内を歩き、BTSの国立競技場前(ナショナルスタジアム)駅で、この駅からスワンナプーム国際空港駅への行き方をS君に説明して、「じゃあ、良い旅を」と改札口近くで見送った。
 ※のちにフェイスブックメッセンジャーにて、彼が無事にチェンマイに到着し、コムローイを楽しんだことが分かりました。なんとも便利な時代になったものです。

 T子さんは日本へのおみやげにタイシルクを見たいと言うので、この駅から十分程度歩いたところにある「ジムトンプソンの家」まで案内した。
 昨年のベトナム〜カンボジア横断旅行の際、国境からホウホウのテイでバンコクに着いたときに泊まったゲストハウスなどがこの駅の北側に七、八件あり、その界隈を抜けると「ジムトンプソンの家」が見える。

「ここがジムトンプソンの家ですよ。100バーツで入場すると、ジムトンプソンさんが住んでいた家や書斎や、当時のいろんなものをガイドさんが案内してくれます。日本語のできるガイドさんもいますから、結構楽しめますよ」

 そう僕は説明したのだが、彼女はトンプソンさんの家自体に興味があるわけではなく、タイシルクを買いたいのだそうで、それなら入口の手前に販売コーナーがありますからと言って、「じゃあ、また夜にね」とここで僕たちは別れた。

 因みに、ジムトンプソン氏はアメリカ軍の諜報機関であるCIAの前身機関OSSに属していたが、終戦後タイにとどまってタイシルクを復興させた人物である。
 1967年にマレーシアの避暑地、キャメロンハイランドに休暇に来ていたが、散歩に出たまま行方不明となり、現在もどこかを散歩し続けているようだ。同氏の失踪に絡んだ話が、松本清張氏の「熱い絹」という小説に描かれているので是非お読みくださいね。

 さて、T子さんと別れた僕は、とりあえずお腹が空いていたのでマーブンクロンに戻り、六階の飲食店街にある8番ラーメンに飛び込んだ。
 一昨年も前年も訪れていた「激熱ラーメン」を目指したのだが、残念ながら店はなくなっており、その斜め前に位置する8番ラーメンに入ったって寸法である。



 タイでもやはり8番ラーメンが強く、普段から暑い国なので、石鍋でスープを激熱にして出してもタイ人には受けなかったようだ。
 注文したトムヤムラーメンのスープもやはりぬるくて、このあたりが日本のラーメンとは違うところである。ライスとで110バーツなり、現在のレートでは四百円ほどにもなるだろうか、決して安くはないのだが、店内はタイ人客でほぼ満席だった。

 マーブンクロンを出てBTSスカイトレインでアソークに戻り、ひと駅だけ地下鉄に乗り、いったんEZゲストハウスに帰ったが、宿泊客は皆んな出払っていて、猫や犬、フクロウの姿さえ見当たらなかった。シャワーで汗を流してベッドで昼寝と決め込んだ。

 ベランダから見える夕陽が高層ビルの向こうに沈み始めたころに目が覚め、再び交通機関を利用して「長月」へ向かった。バンコクに滞在中はできるだけ長月に行くことにしている。タイ料理の屋台や、様々な国の料理店など、他にたくさん店はあるのだが、年に一度か二度しか来れないのだから、オーナーのM氏と時間の許す限り話をしたいので、特に食べたい料理がなければ長月に足を運ぶのである。

 今夜はバンコクの日系企業に長年勤めているA氏と長月で会う約束をしていた。僕の旅行記でお馴染みの友人であるN君の上司にあたるA氏は、バンコク居住歴が長く、タイ人の女性と結婚してアソーク近くに分譲のマンションまで購入しているらしい。
 同氏とは数年前にN君を通じて、バンコクでは有名なタイ料理店「キャべジズ&コンドーム」でお会いしたのが最初、その後長月でも一度飲んだことがあるが、以後はフェイスブックでのやり取りを交わし、今回久しぶりにお会いすることになった。

 午後八時前に長月に着くと、店には数人のお客さんがいたが、すでにA氏はM氏とふたりでビールを飲んでいた。

「こんばんは、お久しぶりです」

「やあ藤井さん、お元気ですか?」

 微笑みの国・タイに長年住んでいるA氏は、本当に素敵な笑顔で迎えてくれた。



「今夜の一本目のビールはハイネケンにしたいんですよ」

「おや、どうしてですか?」とM氏が訊く。

「今日は僕の誕生日なんですよ、六十一回目」

「それはおめでとうございます!」

 お二人にお祝いの言葉をいただいて、この六十一年、どうにかこうにか生き抜いてきた自分へのお疲れさんの意味で、よく冷えたハイネケンを飲み干すのであった。

 つづく・・・


八 誕生日の夜 その二
(今号は画像はありません (´∀`))

 誕生日の夜、友人の店・「長月」でオーナーのM氏とA氏とで様々な話をしながら飲んだ。丸テーブルにどんどん増えるビアシンとビアリオの空き瓶、そして一本だけ隅っこにビアハイネケンの空き瓶が・・・。

「今年はいろんなことがあって疲れました。一月は長男の転職問題で、せっかく公務員になったのにいきなり辞めて、まあ結局4月に上場企業に就職できたんですけどね、本人も悩んでいたようだし、僕も随分と心配しましたよ」

「それは藤井さんの血が流れている証拠ですよ」

 確かにM氏の指摘のとおり、僕の血を引いているのだから、いきなりの転職や自由気ままな部分があるのかもしれないが、息子ふたりは僕を反面教師としているはずなので、ふたりとも堅物とも思えるくらい真面目な男なのだ。

「接客業をしたいと言ってね、辞めちゃったんですよ。本人の人生ですから、自分の思うとおりすればいいんですけど、親としては心配ですよ。せっかく金をかけて大学院まで行ったんですからね」

「大変ですね、子供をもつと、いろいろと」

 A氏が同意する。彼はまだ子供がいない。プライベートを聞いていると、タイ人の奥さんとはおそらく子供を作ることはないようだ。

 オーナーのM氏は独身だが婚姻歴が有り、実のところバンコクで最初に一等食堂を開業した当初は奥さんとふたりで切り盛りしていたらしい。何年かは一緒に営業をしていて夫婦関係も穏やかだったようだが、意見の相違というのだろうか、いつしか奥さんが出て行ってしまったようだ。元奥さんは今でもバンコクに住んでいるらしいのだが、会うことはないとのことだ。

「生きているといろいろとありますね。楽しいことばかりじゃありません」

「そうですね。楽しいことばかりが続くと、それは逆に幸せというものとは違うのかも知れません」

 店にはすでにお客さんの姿はなく、従業員の女の子も帰った。僕とM氏とA氏のテーブルの半分は空のビール瓶で溢れている。

「そろそろお開きにしましょうか。宿に帰ります」

「では宿まで送りましょう。運転手を待たせていますから」とA氏が言う。

 A氏は日系企業の部長なのだが、営業や現場周りで運転手付きの社用車を利用しているらしく、長月で飲んでいる間、店の近くで運転手はずっと待機していたのである。僕は甘えることにした。

「ではMさん、明後日九日の夜行バスでチェンマイへ向かいますけど、十六日の朝にはバンコクに戻ってきますから、また来ます」

 M氏にしばしの別れを告げてA氏の社用車に乗り込んだ。外は猛暑だが社用車の中は心地よい温度にエアコンが調節されていた。タイ語でA氏が運転手に何やら行き先を告げているようだが、僕には全く分からない。

「遅くまでずっと待ってくれていたんですね、この運転手さん」

「彼らにはもちろん残業手当が出ますから、そのほうが喜ぶんですよ」

 A氏の説明に納得する僕。日系企業だから現地のタイ企業よりは少しくらいは待遇が良いだろうが、残業手当は嬉しいに違いない。物静かで感じの良い運転手がゆっくりと車を走らせた。

「チェンマイから帰ってきたら、帰国する前にもう一度お会いしたいですね」

「そうですね、フェイスブックメッセンジャーで連絡します。Aさんの都合の良い夜にお願いします。

「では、地元の人がよく行くイサーン料理店へ行きましょう。安くて美味しいんですよ」

 A氏と再会の約束をし、窓外のバンコクの夜の風景を眺めていると、長月から三十分程度でラマ四世通りを抜けて、EZゲストハウスのあるロンポーマンションの前に着いた。

「では、おやすみなさい」

「おやすみなさい、今夜は嬉しかったです」

 僕の人生の中の何十回あるかも知れない誕生日の中で、六十一回目のこの夜の何気ないシーンのひとつひとつが、先々きっと懐かしい思い出となって、心に蘇ってくるに違いないと思いながらゲストハウスのドアを開けた。

 リビングには宿泊者たちが談笑していて、「お帰りなさい!」と声をかけてくれた。日本の息子たちからお祝いのメールさえ飛んでこないのだが(息子たちには事前に誕生日には何も要らんとメールしておいたのだから当然か)、「今夜、友達の店で誕生日を祝ってくれました」と言うと、皆一様に「おめでとうございます!」と言ってくれるのであった。

 リビングで僕も仲間に入れてもらって談笑、そしてK子さんというバリから来ている女性が明日の早朝四時にはここを出て空港へ向かうから、今夜は寝ないのだとか。

「それなら朝まで付き合いましょう」

 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、テーブルに広げられたタイのスナックをつまみながら飲み、そして話した。

 午前二時を少し過ぎたころ、突然K子さんが「マックを食べたい〜」と言い出した。

「マックって、要するにハンバーガーを食べたいってこと?」

「そうそう、チキン系のハンバーガー」

「でも、まだやってるのかな?」

「二十四時間営業ですよ、きっと」

「行く?」

「どうする?」

「行く!」

 ということになり、真夜中のマックに繰り出すことになった。真夜中といっても、もうかなり朝に向かっているのだが、女性ふたりでは危険なので、僕がボディガードよろしく同行することにした。

 EZゲストハウスのあるロンポーマンションを出てすぐに左折し、そしてまた左折して百メートルほど歩くとラマ四世通りに当たり、そこをわたって少し歩くとマクドナルドがある。午前二時過ぎでも街は寝ていない、さすがバンコクである。

 結局三人ともマックバーガーとコーラなどをテイクアウトして、すぐにゲストハウスに帰り、今度は夜明けに向かってマックタイムとなった次第。

 午前四時になった。K子さんが「そろそろ行きます」と言った。

「では皆さん、お元気で」

K子さんも気をつけて!」

「バリに来てくださいね」

「行きますよ、きっと」

 K子さんはドアの外に消えた。僕とT子さんと見送った宿泊者たちは、少し虚脱感のようなものを感じながらも「そろそろ寝ましょうか」と言って、各々の部屋に戻った。

 長く、素敵な僕の六十一回目の誕生日は終わった。


 大学生たちとイサーン料理


 2014年11月8日、旅の四日目、明け方まで起きていたこともあって、目が覚めたのは十時を過ぎていた。リビングを覗くと誰もいなくて、オーナーの奥様がパソコンを見つめていた。

「皆さんは?」

T子さんはウイークエンドマーケットへ行かれて、他の方もどこかに観光に出られました」

「若い人は元気だなぁ」

 ともかく僕は明日の夜行列車かバスでチェンマイへ向かう。もっと早くチケットをゲットしておくべきだったが、いつも土壇場まで行動しない僕だから、前日になって慌てるのだ。
 EZゲストハウスのあるロンポーマンションを出て、目の前の店でコムヤーンとカオニャオの朝食をすませて、急いでバンコク中央駅・ホアランポーンへ向かった。

 ホアランポーン駅へ行く用事はもうひとつあった。もうずいぶん前になるが、2007年のタイ・ラオス・ベトナム雨季の旅の際、ラオスのサバナケートで知り合ったI君との関係で、当時バンコクに長く滞在し、ホアランポーン駅近くのファミリーゲストハウスを任されていた、ノンフィクション作家の大田周二さんの近況が分かればと、駅前の有名な屋台食堂のてっちゃんを訪ねることだった。(てっちゃんといってもタイ人ですが)

 ホアランポーンへは地下鉄に乗っていれば着く。タイを訪れれば毎回少なくとも一度はこの駅にチケットを買いに来るが、駅構内は十五年ほど前に初めて来たときと全く変わらないのが不思議である。

 チケット売り場で明日のチェンマイ行きのエクスプレス、エアコンコンパートメントを希望するが「Full!」と窓口の女性から冷たい返事、予測したことだがガックリ。仕方なく夜行バスに気持ちを切り替え、駅前の道路を渡ったところで営業しているてっちゃんの店を訪ねた。だがてっちゃんはいなかった。・゜・(ノД`)・゜・

 今度は線路沿いを少し歩いて、路地を入ったところにあった大田周二さんが管理していたゲストハウスを念のため訪ねてみたが、確か2011年の夏にお会いしたとき、ゲストハウスの一階はゲームセンターになるとかで、大田さん自身も南タイへ移るようなことを仰っていたから、おそらくいないだろうと思って行ってみると、やはりいなかった。

 再び地下鉄に乗り、今度はモーチットへ向かった。朝から動き回っているので、身体中から汗が吹き出ては南極のような地下鉄車内で一気に引くといったことを繰り返していると、体調がおかしくなってきた。

 三十分程度でモーチット駅に着くとウイークエンドマーケットを訪れる人で溢れかえっていた。

 駅から北バスターミナル(モーチット・マイ)までは少し距離があるので、停車していたタクシーに乗り、十数分でバスターミナルに到着、急いで窓口へ。

◆北バスターミナル(モーチット・マイ)


 夜行列車と違って夜行バスはいくらでも空いている。本数が絶対的に多いということもあるが、バス会社各社が競い合っているから、人気のあるバスは売り切れになるらしいのだ。バンコク〜チェンマイ間のバスは何度も経験しているので、いつもの窓口へ足を運ぶと、「明日の夜行かい?空いてるよ。何時のに乗るんだい?」ってな感じで年配の女性が問いかけてきた。

「20時位のでいいんだけど」

「じゃあ、20時30分発のはどうだい?」

「それでいいよ、一枚ね」

 こんな感じでようやくチケットをゲット、650バーツ(2000円程度かな)だった。

 ともかく鉄道駅とバスターミナルを動き回っただけですっかり疲れてしまった僕は、モーチット駅近くの屋台でクイッティアオ(麺です)を食べたあとはどこへも行く気になれず、宿に戻ることにした。

 EZ
ゲストハウスに帰ると、昨日と同様に皆が出払っていて部屋はシンと静まり返っていた。汗で汚れた身体をシャワーで落とし、iphoneで音楽を聴きながら心地よい夕寝に入った。今頃、日本の僕の職場では皆が客の対応に悪戦苦闘しているのだろうなぁと思うと、自然と口元がほころび、そして一気に眠りに落ちた。

 次に目が覚めるとすでに夜で、ドミトリーには新たな宿泊者がふたりチェックインしていた。お互いに挨拶を交わし、晩御飯を一緒に食べようということになった。

 彼らは日本で友人であるわけではなく、タイに来てからカオサンのゲストハウスで知り合ったらしく、カオサンのゲストハウスが南京虫が酷いので、ここに移ってきたという。

「イサーン料理でも食べようか?」

「イサーン?」

「タイの東北部の料理でね、ティムチムとかいう鍋があるんだけど、これが美味しいんだよ」

「じゃあ、そこへ行きましょうよ」

 ということになり、ふたりとも大学生とのことで、三人で晩ご飯に繰り出した。繰り出したと言っても、ロンポーマンションを出て、わずな三分程度のところにある店で、前から一度行ってみたいと思っていたのだった。

 店は店内席と外の席に別れていて、僕たちは道路に近いオープン席のひとつに座った。週末のバンコクの夜は、繁華街からかなり離れているこのあたりでも賑やかで、オープン席の近くの道路では渋滞が続いていた。

◆イサーン料理の店

 僕たち三人は、ティムチムという鍋を三人前と、ガイヤーンなどの鶏肉料理やコムヤーン、それにソムタムとカオニャオ、ビアリオの大瓶を注文した。

◆ティムチム


 若い衆とのビールは美味い、初対面のこんなオヤジと一緒に異国の地で晩飯を食ってくれる彼らに感謝しながらも、話題は旅話となったが、どうやら彼らは初海外旅行のようだった。

 ひとりはよく話す面白い青年で、出身は忘れたが、課長次長というお笑いの片方のような顔つきで、もうひとりのほうはどちらかといえば物静か、沖縄の大学生で、将来は高校か中学校の国語の教師になりたいと言っていた。ふたりとも話せば話すほど人柄が良いことが窺え、どんどん飲むビアリオの酔いも手伝って、日本の将来もこのような若者がいるのだから安泰だ、などと短絡的に思う僕であった。

 ひとり旅は寂しいときもあるが、このように知り合ったばかりの人達と飯を食い、ビールを飲み、あれこれ様々なことを語り合う、これが醍醐味でもある。

 さて、明日はいよいよチェンマイへ移動だ。


 十 チェンマイへ

 2014年11月9日、日曜日、今日の夜のバスでチェンマイへ向かう。

 朝ゆっくり寝て、十時を過ぎて目が覚め、昨日と同様にリビングへ行けば誰もいない。一体どうしたって言うんだ?(村上春樹風に)

 ゲストハウスの奥様がいらっしゃってお聞きしたところ、「みなさん朝から出かけました。アユタヤに四人ほど行かれたようですよ」とのことだった。皆んな元気で何よりだ。

 朝昼兼ねた食事をテスコロータスの一階にあるマクドナルドで摂った。日本では滅多に入ることはないが、タイではときどきマックへ飛び込む。なぜか理由は分からない。(笑)

 夕方までiphoneの音楽を聴きながら村上春樹の「羊をめぐる冒険」を読んだ。そしてときどき昼寝、旅の楽しみの時間である。

 午後五時を過ぎたのでバックパックを整理して出かける準備、ゲストハウスの奥様に一週間後の16日から三日間、再びドミトリーの予約をした。若い衆たちはまだ帰ってきていなくて、T子さんに挨拶をしたかったが、やむなく出発した。

 バックパックが重いので一階のロビーでタクシーを呼んでもらった。まもなく到着、モーチットマイと告げる。

 宵闇が迫るバンコクの街の風景を眺めながらタクシーで移動、明日からまた一週間が始まる、日本でもこのバンコクでも、明日から仕事だ、嫌だなぁ、憂鬱だなぁと思っている人々がたくさんいるだろうことは、いったいこの世の中とは誰のためにあって、どうあるべきなのだろうと少し思考してみた。

 考えてみると、僕の社会人生活に於いて、仕事が嫌だ、憂鬱だなどと感じたことは、今の仕事に就くまでは一度も経験がなく、むしろ休みなど要らないと思って休日を過ごしていたくらいだ。最初の就職先も、次の街金関係も、そして探偵調査業も、いずれもやり甲斐があったからだろう。

 確かに今の通信関係の仕事もやり甲斐がないわけではない、お客様に喜ばれるとこちらも嬉しくなる時がたまにある。だが、仕事以外の部分に失望してしまうのである。

 ともかく、考えても結論が出ないので思考をやめた。

 そうこうしているうちに、渋滞の中を突き抜けてモーチットマイのバスターミナルへ19時過ぎに到着した。予約しているバスは20時半の出発だ。巨大なバスターミナルの中でチェンマイ行きのバスが集中している乗り場へ行ってみると、週末にバンコクへ来て日曜日の夜のバスでチェンマイや北部の都市へ戻る人々で溢れていた。


 昨年の秋もチェンマイまで夜行バスで移動した際、長月のM氏からおにぎり二個と漬物の差し入れがあったが、今年は前日に店に顔を出していなかったので、晩飯は売店で菓子のような怪しいサンドイッチとミネラルウォーターで済ませた。

 20時を過ぎたので該当のバス乗り場で待ったがなかなか来ない。20時半を過ぎても来ないので係員に聞いてみたが「もうすぐだ」と言うだけ。結局、20時半のバスが到着して出発したのが21時半だった、ヤレヤレ。

 さて、バスは快適で、座席の前のスペースも比較的広く、iphoneの音楽を聴きているうちにぐっすりと眠ってしまい、途中食事休憩が一度あったが(夜食か?)、遅れもなく朝六時頃にはチェンマイバスターミナルに到着した。

 近くのショッピングモール内のTomNToms Cafeに入り、モーニングコーヒーを飲みながらWifiでスマホをチェックすると、何と古くからの旅関係の知り合いからメッセージが届いていた。彼は今チェンマイ滞在中で、僕のフェイスブックをチェックして、今朝チェンマイに到着する予定であることを知っていた。

「よければバイクで迎えに行きます」とメッセージが届いていた。

「厚かましいですがお願いします」と返信を送ると、すぐにこちらに向かうと言う。

 バスターミナルの入口あたりで待っていてくださいというので、カフェを出てバックパックを背負って向かった。ほどなくIさんが到着、日に焼けた顔にガッチリした体躯は以前会ったときと変わっていない。まさかチェンマイで知人に迎えに来てもらうことになるとは思いもよらなかっただけに、彼が運転するバイクのうしろに跨りながら不思議なこともあるものだと感慨に耽った。

 バイクは彼が宿泊しているホテルで一日単位で借りたものらしく、僕が今夜からお世話になるグリーンデイズゲストハウスのチェックインは午後からなので、先ずはそのホテルへ向かった。見覚えのあるチェンマイの街の光景、今回で四回目の訪問になるが、ロイクロ通りへ入ったところの様子は一年前と全く変わらない。


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